平成20年3月23日に高尾先生が急逝されましたことは、驚きで
あり、残念でなりません。昨年末から少々体調を崩され、入院さ
れておられました。ロタウイルスに、感染されたと聴いておりま
した。3月13日頃容態が、悪化されたと奥様から電話を受け、恥
ずかしいながら初めてお見舞いにあがったのです。本当にかなり
悪いと感じておりましたが、それでも昔の教室のこと私のことな
どを明瞭にお話されておられました。その2日後に参りました時
は、大変お元気で階全体に響くほどの大声でご挨拶を頂いており
ましたのに、23日の正午前に容態が急変して、しかし苦しむこと
なく息を引き取られたとのことです。急性肺炎の結果です。安ら
かにお亡くなりになられたとの事です。奥様のお話でも23日の
午前までは、大変お元気であられたそうで、本当にお亡くなりに
なるとは思っても見なかったことです。 しかし容態が急変し、
ほんの数時間でしかし安らかにお亡くなりになられたことは、
少しばかり気が休まるところです。
続き
高尾先生は、北大を退職されてから胃の大手術を受けられま
したが、順調に回復され、数々のご活躍をされておられました
が、なかでも当協会の初代会長である江口良友先生の後を受け
て、第二代会長として1995年4月に就任され、2002年4月まで
北海道のバイオ産業の振興にリーダーシップを発揮され、我々
を導いてくださいました。会長としての高尾先生は、産官学を
動員し、ネットワーク化を図り、この北海道こそがバイオアイ
ランドであることを強く意識され、ここでのバイオ産業の発展
に寄与されました。会長を辞されてからも例会にも参加いただ
き、激励を頂いていたことに感謝申し上げる次第です。
高尾先生は、大正15(1926)年1月22日 夕張市において
父彰平様・母美祢子様の長男としてお生まれになり、鹿の谷小
学校を卒業後、夕張から札幌に出て、第一中学校(現在の札幌
南高校)に入学され、山鼻での下宿生活を送られました。
昭和18年に北大予科理類に入学されましたが、時はまさに戦時
下で、樺太の上敷香の飛行場建設や美幌、網走、遠軽での援
農、帯広での飛行場の建設などで授業はほとんど行なわれない
まま昭和20年春に農学部農芸化学科に進学したものの防空壕
堀に汗を流し、8月15日に終戦を迎え、米軍の進駐や食糧難の
中にありながらもようやく落ち着いて講義を受けられるように
なったと伺っております。ここで、佐々木酉二教授から応用菌
学の講義を受け、この分野の基礎から応用までを学び、応用菌
学に引き込まれて、昭和23年3月北大農学部卒業、同学部に勤
務し、それから微生物と終生付き合いをされることになりまし
た。助手、助教授と昇進し、昭和45年からは教授として応用菌
学教室を担当し、後進の指導にあたるとともに、微生物を用い
たバイオテクノロジーに関する研究、特に様々な徹生物の有用
な機能の開発、微生物による環境浄化などの研究で多大の成果
をあげられました。
高尾先生は研究に当たっては、科学的な視点に加えて常に応
用開発を視野に入れて研究を進めておられました。その中で常
に北海道への貢献を強く意識されておられました。 例えば
、低温下における廃水処理、強力なセルロース分解酵素生産菌
による未利用木質資源の活用、生でんぷん糖化酵素生産菌の発
見と利用などの課題は、その典型的なものであります。また、
これらの研究は、極めて長期的展望をもった研究課題であり、
高尾先生の後を引き継がせていただいております私、そして
私の後任である浅野行蔵教授のところで、現在でも引き続き
これらの菌の改良と新しい道を探っている息の長い課題であり
ます。高尾先生は、今日の状況を予見してこれらの研究を開始
してくださったわけで、我々後輩が進むべき道を準備してくだ
さったことになります。
これらの業績は国際的にも高い評価を受け、我が国のバイオテ
クノロジーの最大の学会であります日本農芸化学会から、昭和
60年にその最高の賞、鈴木賞、これは現在の日本農芸化学会賞
ですが、この賞を本道の研究者としては初めて受賞されており
ます。
また、北海道のバイオマス資源、特に木質資源の微生物によ
る 有効利用や生でんぷんの利用などについても積極的に研究
を進め、それらの業績によって平成元年北海道科学技術賞を受賞
されました。平成13年には、北海道功労賞(バイオテクノロジ
ーの振興)を受賞されております。また、平成16年には、瑞宝
中授章を授章されています。
高尾先生は、専門の研究・教育分野のみならず評議員を務めら
れ大学の運営に関与されるとともに、国際交流委員長を務められ
ました。特に東南アジア諸国や中国でのバイオテクノロジーの指
導を積極的に進められました。その実績により中国無錫軽工業大
学から名誉教授の称号を受け、平成7年には中国のバイオ振興へ
の貢献によって、日本人として初めて中国軽工業国際協力賞を受
賞しました。
道内にあっては、昭和59年から61年まで北海道先端技術推進
会議バイオテクノロジー専門委員長、昭和62年から63年まで食
品加工研究センターの建設基本構想検討委員長として、その設立
に大きな貢献をされました。この他、平成2年から7年までは
北海 道商工業振興審議会会長を務められるなど、数々の委員会
に関与されております。
高尾先生は、実にウィットとユーモアに富んだ人情味あふれる
お人柄で、学生には時には厳しく、しかし愛情をもって接し、毎
年、研究室の学生諸君をお宅に招いて奥様ともども歓待してこら
れました。
一方で高尾先生は、北海道新聞の科学随筆欄「魚眼図」に昭和
57年から15年間連載され、北海道を中心に「いかに微生物が
我々の暮らしと密接に繋がっているのか、また役に立っている
のか」ということ、やさしく科学の神髄を多くの方々に知らせ
ることで、先端科学を一般の方々に分かりやすく伝えてくださ
っております。それらをもとに、平成9年には「食卓の小さな
巨人微生物」というエッセイ集を北海道新聞社から出版されて
おられます。
また、更に、高尾先生は多彩な趣味を持っておられますが、特
に有名なのは、世界の微生物やバイオの切手、北海道大学に関す
る古文書や郵便資料などの収集であります。
高尾先生は、北海道大学を退官後も現在に至るまで、札幌商工
会議所のバイオ&食品工業研究会会長、北海道バイオ産業振興協
会会長として、バイオテクノロジーの面から熱意をもって北海道
の産業振興に御尽力されておられます。
ここまで申し上げましたように、高尾先生の特徴をあえてまと
めさせていただきますと、「Think globally,and act local
ly」を実行されてこられた方であります。言い換えますと、一
般の人々の心の解る科学者であり、しっかりと地域に根をおろし
た真の国際人と申し上げられると思います。
本当に不慮の病を得て、他界されましたこと、誠に残念でござ
います。まさに巨大な指導者を失ったことは、大きな悲しみで
あり、今後の私どもにとって大きな痛手であります。しかし、
私どもは高尾先生の教えを守り育てることが高尾先生の恩に
報いることと思っております。
私どもは、高尾先生の意志を受け継ぎ、ますます微生物バイオ
そしてバイオ全体の発展に努力していく覚悟でございます。
どうか私どもを見守ってください。
最後に心より、高尾彰一先生のご冥福をお祈りいたします。
会長 冨 田 房 男